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創刊号

  • 創刊号表紙
  • 創刊号目次

1913(大正2)年5月10日号(創刊号)。編集部員は石山賢吉、佐藤武雄、相澤周介の3人。64ページで1000部を刷り、知人に無料配布した。巻頭の辞で賢吉は「本誌の主義は算盤の二字を以て尽きます」…と宣言している。目次横の広告は「三ツ矢サイダー」の帝国鉱泉株式会社。

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関東大震災

  • 関東大震災表紙
  • 関東大震災目次

1923(大正12)年9月21日号。9月1日に発生した関東大震災で、社屋は焼失を免れたが活字が散乱したため9月11日号は休刊。本誌名物となっていた表紙の銀行広告は、すべて「日本橋店焼失に付本店内へ立退」など、首都圏の惨状を生々しく伝える"被害報告"となった。

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金融恐慌

  • 金融恐慌表紙
  • 金融恐慌目次

1927(昭和2)年5月1日号。前年末の改元後に日本経済が迎えた、昭和最初の試練。目次にも「空前の混乱」の文字が躍る。相次ぐ銀行破綻をスピーディーに報道・分析した本誌は、続く世界恐慌、昭和恐慌でも強みを発揮。経済誌としての存在感を強固なものとしていく。

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太平洋戦争

  • 太平洋戦争表紙
  • 太平洋戦争目次
  • 太平洋戦争目次

1942(昭和17)年4月1日号。真珠湾攻撃の翌年。表紙の社名広告が軍部の批判に遭い、代わりに絵入りの科学コラムが表紙を飾ることに。敵性言語として同業の『エコノミスト』誌が『経済毎日』と改題される中、本誌は幸運にも『ダイヤモンド』の名を維持することができた。

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焼け跡からの出発

  • 焼け跡からの出発表紙
  • 焼け跡からの出発目次

1946(昭和21)年8月11日号。前年5月の空襲で本誌社屋は全焼、100人超の記者も召集で10数人に減ったが、自前の印刷工場が焼け残った幸運もあり、半年の休刊を経て同年11月、復刊に至った。敗戦1年後の誌面から伝わるのは「コロンブスの舟出の様」な未来への意志である。

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伸びゆく日本経済

  • 伸びゆく日本経済表紙
  • 伸びゆく日本経済目次
  • 伸びゆく日本経済目次
  • 伸びゆく日本経済目次

1958(昭和33)年8月19日号。経済企画庁が「もはや戦後ではない」と宣言したのは1956年。57年に週刊化した本誌も、増え始めたカラーグラビアで最先端の工場レポートを掲載し、産業の躍進を伝えてきた。オフィスに「電算機」=コンピュータが進出するのもこの時期。

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東京五輪

  • 東京五輪表紙
  • 東京五輪目次
  • 東京五輪目次

1964(昭和39)年11月4日号。1970年の大阪万博と並ぶ高度成長期のハイライト。「算盤主義」の本誌は、終幕後のこの号で「オリンピック商戦の総決算」と題した記事を掲載した。家電、テレビ、カメラ、ホテルといった当時の花形業界の「数字」を、現在と比べてみてほしい。

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オイルショック

  • オイルショック表紙
  • オイルショック目次

1973(昭和48)年10月6日号。本誌がヨコ組み・左開きスタイルに移行していた時期。第4次中東戦争が世界経済に深刻な影響を投げかける。巻頭グラビアには、丸ノ内を往来する40年前のビジネスマンの姿が。「企業戦士」「モーレツ社員」と呼ばれた彼らが経済を支えていた。

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バブル崩壊前夜

  • バブル崩壊前夜表紙
  • バブル崩壊前夜目次

1991(平成3)年2月16日号。バブル景気は下降傾向にあり、「このままでは兜町は死ぬ」「ダウンビートの音が聞こえる」などの記事タイトルには"警鐘"の響きも。ダイヤモンド社は1950年代からピーター・F・ドラッカーの著作を刊行しており、本誌への論文掲載も多かった。

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