新天地をもとめて 慶応義塾商業学校 雑誌記者

 明治36年5月、21歳のとき、在京の親友丸山謹次を頼って東京の土を踏む。重大な転機をむかえたのである。最初、判検事か弁護士になる希望をもって親友のアルバイトを手伝いながら日本大学別科へ入学する。在学六ヶ月の頃、丸山の兄、孫造から「これからは法律より経済」だと忠告をうけ経済を勉強するため、慶応義塾商業学校へ転校した。卒業後は会社か銀行へ勤める積りだったが、学生時代から野依秀市の知己を得、「三田商業界(慶応交友雑誌。後に「実業之世界」と改題)」の編集に従事した関係でジャーナリストの道を歩み始める。

  石山は実業之世界社で雑誌記者として奮闘し、その才能を開花させていった。原稿を書くのが好きでその頃から会社の決算批評や大蔵省の米穀関税政策に批評を加えた堂々たる論文を発表した。時に、古河鉱業の鈴木恒三郎に「決算報告の見方」を教えてもらう。明治39年慶応義塾を卒業後、5年間実業の世界社で働き、その後新聞記者として、サンデー社に勤務。日本新聞で株式記者を経験し、伊藤欽亮社主から一般経済の教えを受ける。そうした経済知識の勉強と取材努力を重ねるうちに、会社評論以外に一般経済記事も書けるようになったのである。当時石山賢吉が雑誌ダイヤモンドを立ち上げることが出来たのは、もちろん運もあったが、学生期より交流のあった慶応の先輩や、新聞記者時代に実業家に信用を得たことが大である。