ダイヤモンドの経営

 創刊5周年にしてようやく社業の基礎も固まり、これを期に麹町区内幸町に土地200坪を買い入れた。

 当時1坪150円だったから3万円の資産になる。創刊時は京橋区南八丁堀の貸席「竜宮」の三階の1室から立ち退きを申し渡され、赤坂区田町の二階建て一戸を借りて後、大正5年日本橋区蛎殻町に家賃35円の事務所へ移転した。同7年その借家を買う気でいたが、小林一三に相談すると「建物だけを買うのはばかげている、自分の土地を買って建てろ」と助言を受け、方々あたりやっと買える地所が見つかった。その年の10月に落成した新しい本社屋は二階建て30坪の本館と40坪の平屋建ての印刷工場だった。

 石山の理想は製作費を安くあげて高く売るところにある。「もちろん利益をむさぼるためでない。製作費を安くあげて、編集費を十分とるためであった。編集費が少ないとよい雑誌ができない。私はそれが厭だった」と石山は「私の雑誌経営」の著書で語っている。編集費を豊富にして記事を精選する。それが石山の理想だったのである。

 このため雑誌は小型にして、小活字でびっしり組んだ。創刊号の菊版六号三段組はこうした計算から生れたのだ。しかし読者から活字が小さくて読みにくいと苦情が殺到し、五号二段組に改めた。さらに菊倍判9ポ四段組、四六倍判9ポ四段組と判型を変えた。読者の要望と彼の理想との接点を求めての試行錯誤だったが、落ち着いたのは創刊4年半も経ってからであるから、頑固な理想を貫こうとする石山の姿勢がうかがえる。

 記事については創刊号の"本誌の主義"にもあるが、なにものにも曲げられない公正無私の立場でものごとを厳正批判する精神が貫かれている。言論自由で、第一線の記者の書いた記事は、社長といえども曲げられない。もし間違っていたら訂正し謝罪すべしと堅く護っていたのである。文章は平易でわかりやすいから読む人が納得できる。記者も石山のような文体を目指した。文章修練は厳しく、若手の記者を育てるのが好きだった。よくカミナリを落としたと寺沢末次郎(元社長)は後年述べている。

 ダイヤモンド誌のほかに、いろいろな仕事に手をひろげていった。外国向けの経済通信、経営者向けの図解雑誌、商業学校向けの小型新聞、株式レポート、ダイヤモンド日報、婦人雑誌、名古屋の夕刊新聞発行、オフセット印刷会社、昭和期には文具、衣料の事業会社をおこした。これらの結果は総じて成功しなかったのである。戦前中の用紙統制、言論統制、経済情勢あるいは共同経営の破綻などから多くは消滅した。石山は自らを経営に向いていなく記者だと何度も書いているが、大事にあたっての思慮と決断は、やはり経営者だった。