出版部発足

 昭和9年には、出版部を設立し、本格的に事業に乗り出した。幸いに大正4年に「決算報告の見方」の初版を出したがこれが当たり、戦前の用紙統制まで45版を越えるロングセラーとなった。石山賢吉の没後、松永安左エ門、松下幸之助がこの著作をして、洛陽の紙価を高からしめたとダイヤモンド誌で述べている。昭和3年に「経済記事の基礎知識」「銀行会社年鑑」など数々手がけていたので"実務書のダイヤモンド"が定着していた。

 石山は「雑誌経営五十年」の中で、「なにぶんにも出版は難事業である。雑誌も難事業だが、出版はそれ以上である。雑誌は発行して軌道に乗ると毎月の変化はそれほど激しくはない。だが出版は出す一つ一つの書籍がことごとく一本勝負である。売れると思って出したものがさっぱり売れないと倒産せねばならない。また、出した書籍が売れても、印刷部数に比較してある程度売れなければやはり損である。この損がいくつも重なればやはり倒産せねばならない。出版は、いかなる書籍を出すかが第一にむずかしい。その印刷部数を決定するのもむずかしい。これに成功するには出版の知識と経験が必要で、その人を得なければならない」と語っている。

 初代の出版部長は石山皆男が担当し、産業全書シリーズ、実務全書シリーズを出し当てたが紙の統制が行われ中絶してしまった。戦後は桑名一央が出版部長として「信念の魔術」「積極的考え方の力」「三六五日をどう生きるか」など米国の精神修養書の翻訳もので当て、有益な経営学の書籍を多く出版し、わが国に経営学ブームを巻き起こしたりした。