新機軸

 この頃から事業のほかに周辺のことに力を惜しまずに尽くした。とくに郷土振興の功績はすばらしいものがある。昭和11年から東京新潟県人会の世話を続け後に会長になって、亡くなるまで30年にもおよんだ。新潟県の産業振興に石山が直接奔走し、誘致したのが日本軽金属新潟工場、日曹製綱新発田工場、理研電線白根工場、呉羽紡績長岡工場、津上製作長岡工場などである。幾多の企業の工場誘致に成功した例はいまだかつて何処にもない。また県出身者や文化人、芸能人の後援に力を貸し、少しも面倒がらずに、よく世話をした。昭和16年にはダイヤモンドの全社員200名で郷里新潟県に旅行をした。その折に工場誘致した白根の理研や母校に凱旋、生徒父兄を前に演壇にたち講演をしている。

  同年「満州経済」の創刊に全面協力し、社員3名を移籍させている。また社員の厚生施設として農園を開設し、蒲田にあった少年寮舎を西生田の農園内に移転した。農園は5〜6000坪あり、新潟の佐渡の農民道場に開墾を依頼、毎年4、5名派遣してもらった。労働争議の調停を引き受けたこともある。小石川の共同印刷争議、足尾銅山問題など社会的な問題になったものの調整役にひっぱりだされ苦労したが、労働運動家や社会主義者の大杉栄や荒畑寒村らと交流することになった。イデオロギーは違っても気性が好きで人間としてつき合うのである。本質的には同じジャーナリスト仲間であり、石山もまた言論人・社会正義の徒である。政治のことは本来好きでなかった。推されて出馬するといった具合である。昭和12年、石山は東京市会議員選挙に市政革新同盟から立候補し、当選した。再選され18年まで6年間その職にあった。このような外部状況と急を告げる時局に対応し、昭和15年12月社長の交替が決定された。石山は会長職に就任し新社長には阿部留太が就任した。

 その後の石山の公職には、戦時貯蓄動員本部評議員(18年)、大蔵省行政委員(19年)、大蔵省通貨対策委員(20年)などがある。戦後、昭和22年、芦田均の民主党から推されて新潟1区から衆議院に当選。不運にもGHQのG級公職追放となり6ヶ月で解任。24年再び出馬するも落選。24年参議院全国区から出馬したが落選した。これを機に政治家を断念、社業に専念することを宣言した。大蔵省の行政委員として戦時財政の運営に参画した時、後に総理大臣になった福田赳夫と出合った。福田は石山の葬儀の弔辞で「黒い戦闘帽に白い学生カバンを肩にかけ巻脚絆姿でこの会議に精勤されたキビキビと若々しい姿だった。会議では終始寡黙の方でしたが、時折発せられる寸言尺句の鋭さがあった。先生が経済眼で秀でた見識をお持ちということと、奥底には深い社会正義観と熱烈な祖国愛の精神がかくされていると見てとった。晩年指導に預かったが、寡黙の先生がときにもらされる短いお言葉は千金の重みをもって、私に迫るものがありました。」と述べている。