戦災

 日本の敗戦は、昭和19年6月に判明した。雑音会という石橋湛山、小汀利得ら会員の会合で石渡大蔵大臣が吐露した「サイパンが包囲され米艦隊を追っ払うことが出来ない」という言葉だった。石山は会社の一室に事務所を持っていた芦田均に、日本が負けたらどうなるのかを聞いた。

 [米国は、従来の戦争のごとく、勝っても賠償は取らない方針だ。だがその代わり戦争は利得にならぬものだいうことを、日本人に知らせるために、これまで得た戦利品を返させる。朝鮮も台湾も樺太も返還させ、日本を日清戦争以前の状態に引き戻す]国際情勢に詳しい芦田の話は観測どおりに推移した。

 昭和18年、政府は軍需産業の強化のため企業整備策を決定した。出版社はとくに用紙統制の名のもとに3400社を200社程度に統廃合するべく出版事業令が出された。200誌の経済投資雑誌が12誌に整理され、さらに四社四誌に統合する案が出た。鮎川義介と情報局がダイヤモンドと東洋経済を買収して研究機関をつくりその社長に就任するという構想が検討されたが、結果的に立ち消えとなった。存続資格は相当の規模と企画力、編集力とを具備するものとされ、ダイヤモンド社は出版部と印刷部の存続認可がおり、ダイヤモンドも産業経済雑誌としての存続が認められた。

  ダイヤモンド社は昭和20年5月25日の夜、空襲で焼けた。当時大部分、東海生命から買ったもので地所600坪、焼けなかった60坪の倉庫と250坪の印刷工場の外郭だけが残った。ダイヤモンド誌は、すでに昭和20年4月21日号より用紙の手配がつかず事実上休刊状態だった。5月25日の空襲で11月の復刊まで半年間の休刊を余儀なくされた。石山賢吉は焼け跡を見た時、[来るものが来たな]という感想だった。地べたに腰を降ろし1時間、2時間もただ茫然と焼け跡を眺めていた。さてどうするか。小なりといえども、社会の公器としてのダイヤモンド社の善後策である。会社再建の思いは、焼け跡に立った石山賢吉の胸中にふつふつとして燃え上がったのである。