アメリカに学ぶ

 追放中から取り組んだのが外国会社の研究である。「会社経営と株主報告。米国及び欧州の実例」(昭和28年刊)という著作になっているが、A4判400頁の大作だ。米国、ヨーロッパの企業から会社案内や株主報告書などを取り寄せ、一社一社分析し、記事にしてダイヤモンドに掲載した。昭和25年に日本の商法がアメリカ流になるということから、著名な企業を日本の読者に紹介したのである。

 昭和28年、71歳の時アメリカ視察に旅立つ。30人の旅行団だった。社の五十嵐惣一と長男の石山四郎が同行している。行程75日、訪問した会社は46社、見学した工場は36。このときの石山の努力は、まことに壮者もおよばぬものがある。連日の行動に耐えて、その日のうちにホテルで原稿を書く。それは"アメリカ印象記"となって残っている。A5判300ページの著作だ。

 アメリカ印象後記を引用すると、『私は以上でアメリカ印象記を書き終わった。長々と書いた。伊藤忠兵衛氏が、「あんたの旅行記は、結構や。短ければ、尚、結構や」といった。無駄を書いて、要領を補足しにくいということを、素直に、評されたわけである。痛いところを1本やられた。その欠点は、確かにあった。そこで、印象記のあとに、視察の感想を集約して、書き添えておく。

1、米国の会社は、お客の気持ちになって、物を生産している。
2、米国の会社は、出来るだけ見込み生産を避け、注文生産に専念している。
3、米国会社の今日の大量生産は、資本の力だけでない。
  その奥に、多大の知識と経験が潜んでいる。
4、米国の会社の中には、古い機械を利用し、新しい機械を作っている会社がある。
5、米国の工場には、高年齢者が多い。青年をあまり見受けない。婦人が多い。婦人も高年齢者が多い。
6、米国の会社は、土曜と日曜を完全に休み、それで世界何れの国にも優る、業績をあげている。
後略』 石山は帰朝すると、すぐに社の幹部を集め、アメリカで見たもの、感じたことを伝え、社に応用することを訓示した。記者の反面はやはり経営者である。

 昭和26年1月1日号のダイヤモンド誌に「アメリカ会社の決算報告」と題する連載記事をスタートさせている。すぐに「米国会社の株主報告」とタイトルを替え、また「外国会社の株主報告」として昭和28年まで定期的に記事にしている。

 この間、記者活動に加えて、昭和27年からラジオ放送の「経済観測」という番組に出演するようになった。ラジオ東京、NHK、ラジオ大阪などに出演、名士との対談や、株式観測の解説を放送している。また昭和30年代には、社外の新聞、雑誌、その他会報に記事を頼まれ、数多くの原稿執筆をしている。戦後10年を過ぎ、"もはや戦後ではない"と昭和31年度の経済白書がいみじくも記した。回復を通じた成長から、近代化のための積極的な投資が盛んになり、日本が高度経済成長時代を迎えることになる。