黄金期のダイヤモンド社  藍綬褒章・紺授褒章

 ダイヤモンド社が石山経営で花開いたのは、実は昭和30年代であろう。日本経済の高度成長に伴って、“岩戸景気”となり、池田内閣の「所得倍増計画」の発表で成長ムードは一気に加速した。ダイヤモンドの週刊化と月刊「投資生活」の創刊に始まり、臨時号、特大号の発行ラッシュが続いた。 昭和35.6年、本格的な大衆投資時代が到来し、証券市場では「第2部市場」が発足したため、読者に対する啓蒙から「実戦株式研究室」といった色紙16pの特設欄を掲載するなど、誌面刷新を図った。

 編集面の体制としては「ジェット体制」と称するものが出来上がった。これは、従来は金曜日中に編集・印刷・製本を完了し、翌週の月曜日に発売していたが、編集作業を土曜正午まで繰り下げ、ただちに印刷・製本に取りかかって夕刻までにすべて完了する体制に移行したのである。

 37年には「ダイヤモンド株価グラフ」を創刊した。出版部は、「ハウツウもの」といわれる翻訳刊行を当てた。「365日をどう生きるか」「販売は断られた時から始まる」「カーネギ−話し方教室」「1日24時間をどう使うか」「自分を売り込む法」「独創力を伸ばせ」「努力しないで出世する方法」等などが続々刊行され、爆発的な人気を呼んだ。わが国の経済社会は、昭和30年代から大きな変貌をとげ、“三種の神器”といわれた電化ブームやモータリゼーションの台頭など、大量生産・大量消費時代に突入した。企業は同時に、販売競争、設備・技術革新のみならず、経営の近代化・合理化を図っていった。これまでの経済誌とは異質のジャンルである雑誌「近代経営」「セールス」の両誌を創刊するとともに、新しいアメリカ文化を紹介するために、経営学関係の諸文献、オ−トメーション関連書、生活技術・自己啓発書の刊行に積極的に取り組んだ。

 とくに、昭和30年代初めに発掘した国際的経営学の権威、P・F・ドラッカーの諸著作は相次ぐベストセラーになり、“経営書のダイヤモンド”と定評を得るようになった。この時代の出版は黄金時代といえる。数々の出版文化賞を受賞した。さらに「数理科学」誌の創刊、「セールスマネージャー」誌の創刊、季刊「グラフィックデザイン」の創刊、34年に経営者セミナー「ダイヤモンド経営センター」の開催、36年経営実務セミナーの開催などの事業展開は業容の拡大と充実といえるものだ。ダイヤモンドの“第3次黄金時代”であることは間違いないし、石山賢吉の経営における黄金期だった。人・モノ・金の三拍子が揃ったわけだ。

印刷部門の近代化も着々と進み、西ドイツのハイデルベルグ社製高速印刷機5台を購入、浜田精機の2色刷り雑誌輪転機を設置した。また、写真製版のすべてを内製化した。37年には津上製作の高速グラビア印刷機を4台設置した。さらにスイスのカラーメタル社からオフセット印刷機を購入するなど主要印刷方式をそろえた。石山賢吉の長男である石山四郎がダイヤモンド社の常務として印刷事業を指揮してきたが、昭和38年4月、アメリカのタイム・ライフ・インターナショナルとの合弁事業として、ダイヤモンド・タイム社を立ち上げ、「フォーチュン」の日本版「プレジデント」を創刊した。「プレジデント」は大型で経営者向けのオピニオン雑誌であったが創刊2年目で黒字になった。以来40年、ダイヤモンド社の経営からはなれたが成功例である。

昭和37年12月、石山賢吉は文部大臣より藍綬褒章を授与された。受章の理由は、「多年経済図書の出版事業に従事し、実務知識の普及に努め、よく産業教育の発展に寄与した」ということだった。3月にはすでに紺授褒章をうけている。