ブックタイトル「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい

ページ
7/10

このページは 「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい の電子ブックに掲載されている7ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい

25 第1 章「殺された被害者の人権はどうなる」 このフレーズには決定的な錯誤があると左。そして加害者と被害者。つまりダイコトミー(二項対立)だ。発達したメディアによって、単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうして二分化された要素は、さらに濃密になりながら肥大する。正義や大義はより崇高な価値となり、悪人や悪の組織は問答無用で殲滅すべき対象となる。だからこそ死刑存置派が増殖する。いったん始まったこの動きは、治安悪化を煽るメディアによってさらに加速する。第二部のシンポジウムで最初にマイクを手渡された僕は、要約すればそんな趣旨をしゃべりながら(年配の男性が第一部だけで帰ってしまったことは後で知った)、隣に座る死刑存置派の重鎮である土本からはどんな反論が来るのだろうと考えていた。でも次にマイクを手にした土本は反論しなかった。しないどころか土本は、とても自然に僕に同意した。死刑制度を廃止すべきとまでは言わなかったけれど、現況の制度にはあまりに問題が多く、存廃論議の前にまずは情報公開をすべきであるとの意見は、坂本も含めて三人が一致した。土本がしゃべっているとき、客席からは何人かの男性や女性が、不愉快そうな表情で退席した。その様子を壇上から見つめながらも、土本の言葉は揺るがなかった。「絞首刑はあまりに残虐である」と何度も強調した。人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「矯正の余地はない」などのフレーズが常套句になっているけれど、なぜ裁判官にこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。まさし