病気との付き合い

 石山は長生きを振り返り、著書「回顧七十年」の中で、長寿について語っている。

  「幼少から病弱だったのは、30歳で肺病でなくなった父の遺伝子のせいだからかもしれない。30歳の頃、神田駿河台の杏雲堂病院の佐々木秀一副院長に診てもらうと左右の肺尖が悪く、数ヶ月禁欲して療養の必要性を促がされた。同時期に警察病院の院長である塩沢総一先生から紹介してもらい、上野にある楽山堂病院の宇野院長にジロウの手術を受けた。創刊時のバタバタの頃には蓄膿症で患い木村病院の世話になった。厄年の頃には糖尿病と診断されしばし入院の憂き目に会った。48歳の頃、胃潰瘍になり制酸剤の服用を長く続けた。68歳では低血圧症で身体にムクミがでて脚気症と診断され、近くの親戚にあたる佐々木病院に毎日通い注射と食養生で征服した。そういう次第な訳で長生きしているのは、警察病院の塩沢先生の医戒を守ってきたからだ」と、がしかし晩年には帯状疱疹という妙な病気にかかり、3年半病院と自宅を行ったり来たりした。

  石山は自身の性格を「私の雑誌経営」の中で、頑固で気短といっているが、先輩諸氏は石山の人格的美点を義侠心、世話好き、誠実、剛毅、謙虚な性質と称している。一方で努力と工夫が人並み以上に備わっていたと思える。趣味も幅広い。人道楽といわれるぐらい仕事柄多方面に交遊を続けている。

  そして、恩義のある方には必ずといっていいほど恩に報いている。書画が好きでとくに揮毫をのこしている。

  創業期には、『一致協力』『敏に過ぎるは禍を生ず』『友遠方より来る』そして、『鈍重』『何事も正直に通せ』『天無口』『毎日原稿を書く』『嘘云う、皆云う必要なし』『不撓不屈』『運は平等、それを捉えるのは人の力なり』『下学上達』『流水後不止』『楽天命』晩年には、『人智無極』 など自分に言いきかせるべく金言である。

  また、自伝のなかで学歴の無さを強調している。当時(明治後期)の学制は尋常小学校6年間が義務教育だった。併設の高等科は無試験で成績優秀者のみ2年間進学できた。石山は高等科まで白根町で学んだ。義務教育の後、就職する者が多数だったが、中等教育として中学校5年、師範学校、高等女学校、商業学校、工業学校があり、高等教育としては高等学校3年、高等師範、高等商業学校、高等工業学校、大学3年のコースとして、文理大学、帝国大学があった。石山は川瀬家に居候の身の上で中学にはいけなかった。石山が22歳で上京して、最初入学したのは日本大学別科というから夜学校である。半年のち慶応義塾商業学校に入学し、2年後卒業した。

  戦後に、6・3制になり、義務教育が9年となり、旧制の中等教育は高校に、高等教育、専門学校が大学になったので、いわゆる学歴は高卒である。新聞記者という仕事は概ね大学出の連中ばかりだったかもしれない。雑誌記者の最初のころ、名刺に記者とせず編集員としていた。福沢桃介の紹介で財界人に会いに行き、「君は何処の大学かね」と聞かれ慶応の商業学校出身と正直に云い、取材していった。記者稼業は1に取材力がモノをいう。文章力はまずまずだったから、要は知識なので、人一倍努力して勉強した。