震災

 大正12年の9月1日関東大震災にみまわれたが、社屋は運良く助かった。石山はこういう場合我社のみ安逸をむさぼるべきでないと考え、困っている人を差別無く社に収容した。食事を分けてやったので、多くの避難民がおしかけてきた。日本橋の商人、米倉嘉兵衛一家が日比谷公園に避難していると聞いて、迎え入れた。山一証券の杉野社長がやってきて、社屋が丸焼けになり事務所に困っていると聞いて、2階の一室を提供した。また中外商業新報(日本経済新聞の前身)には印刷工場を貸した。当時の印刷工場は、活字一式と小型印刷機が二台しかなかったが新聞の号外用に使用した。9月6日からダイヤモンド日報の号外を出し、21日には、本誌も、社外の印刷会社が復興していなかったので、自前で予約読者向けのみ作り上げた。12月にやっと以前のように一般販売まで漕ぎつけた。大正13年自社印刷のための新工場を立ち上げ〔コンクリート造り、地上2階地下1階、組版・印刷・製本にいたる一貫生産体制〕創刊12年の夢がかなったのである。

 昭和初年に始まる"金融恐慌""金輸出解禁"問題などダイヤモンド誌は、論壇・記事を活発に掲げていったが"昭和恐慌"とよばれる大不況時代が到来した。現在のバブル後のデフレ不況とよく似ている状況と評されているが国のストックが異なると考えていい。昭和恐慌の直接的な打撃は生糸と綿糸だった。このため製糸・紡績産業は苦境に陥りリストラ・倒産の波に洗われた。失業者は300万人に達し、悲哀を極めた現象は農村の疲弊であった。これらの恐慌の実態を精力的に調査し、恐慌打開策を誌上で取り上げていった。

 昭和6年 満州事変が勃発し、軍需産業が活発化するなど、恐慌から脱出することが出来た。ダイヤモンド誌はこの時期読者の負託に応え、誌面もようやく定まって、一段と精彩を増すようになっていった。以前にも増して内外著名人の寄稿を求め、旧来からの藤原銀次郎小林一三松永安左エ門をはじめ石坂泰三、高碕達之助ほか多くの人々に及んだ。多彩な各界の権威の登場は、石山のジャーナリストとしての幅広い活動と交友関係を物語るものである。