衆議院議員

 昭和22年4月の総選挙に石山賢吉は立った。経済を知る人間として、彼の念願は増産第一主義である。手放しの増産は恐慌と不景気を呼ぶもので、増産の調節が必要と考え修正資本主義がよいと主唱。在野の立場から、進んで国会の場にその言論を反映させたいという念から立候補した。

 衆議院議員に当選するが、なぜ政治に突き進んだかは資料の限りではわからない。戦前から芦田均や中野正剛と親しかったことが影響しているかも知れない。また、実業之日本の増田や東洋経済の石橋堪山の影響か、はたまた偶然か、選挙区の新潟1区の有権者にそれほど知名度があったとは思えないが、新潟県人会関係、白根町関係、雑誌社の人脈をふる活用して当選した。

 著書「花に背いて」(昭和24年総選挙転戦記)は佐渡と新潟市、西蒲原郡の地元といわれる地域の選挙戦のあらましだが、本音のところ見えてこない。しかし議員となって半年後、皇室の経済委員として宮城に拝観してすぐの昭和22年10月、公職追放というショッキングなことになる。