読者をひきつける呼吸を学ぶ
私は、文章の天分にとぼしい。その私が文章を書くのを一生の職業にするようになったとは、運命のめぐり合わせであった。
上京したおり、懐中には金が十三円しかなかった。一ヶ月の生活費しかない。東京についたその日から職業を求めなければならなかった。職業の善悪など問ういとまがなかった。友人の世話で、そのころ創立された芸者評判録発行所というところに入社した。月給十三円であった。
最初の仕事は市役所に行って芸者の戸籍を写し取ることであった。それが終わると、芸者屋訪問をさせられた。それも、助手である。ワキで筆記をするのであった。一方に、芸者の評判記を書く仕事が起こった。評判記を書くのは都新聞の宇高という記者が内職にやって来た。ある日、私がソッと一人の評判記を書いてみた。それがお目にとまって[お前も評判記を書け]となった。
都新聞の記者は、さすがに、うまかった。さりげなく書く文章に味があり、ときどき警句をはさむ烏森の芸者が、後ろ姿を写した写真を送ってきた。都新聞の記者はその評判記を書いて「露もしたたる御面相は、写真の裏からご覧くださるべし」と結んだ。これには一同大笑いをした。
私は、もちろん、そういう名文は書けない。それでも、拙文が採用されて、しばらく評判記執筆で日を送った。これが、文章を職業にしたはじまりである。
その発行所は、不良少年の群れであった。長くいるところではない。ほどほどに切り上げ、郷里の伯父から学資の仕送りを得たので、学校生活に転じた。学校は、慶応義塾の商業学校であった。これは夜学なので、昼は神田の正則英語学校に通った。
新雑誌の発刊文を書く
商業学校の卒業を間近に迎えた明治三十九年の1月に、野依秀市君が、雑誌発行を計画し、私に発行の辞を依頼してきた。依頼者は三人で、その中のよいのを雑誌に掲載するということであった。私は発刊の辞を書いた。文章は[戦いは終わった(日露戦争を意味す)。
だが、それは力の戦争が終わったので、これから経済戦が展開される。銃を持った兵士が帰還する日は、ソロバンを手にした商船隊が出発する日である。今後は経済雑誌が大いに必要である」というような意味であった。この拙文がパスして、新雑誌の巻頭に載った。
私はまもなく、商業学校を卒業した。発刊の辞がものをいって、卒業後新雑誌の記者になった。新雑誌は「三田商業界」と名づけられた。3−4年後に「実業之世界」と改題された。私の仕事は、はじめ訪問記者であった。財界の名士を訪問して、その話を書くのであった。
私は、この仕事中、財界名士の数字に記憶ちがいのあることを知った。そういうのは、私が正しい数字に訂正して発表した。これが縁となって、私はときどき調査記事を書くようになった。
その際、困るのは、文章であった。複雑したところへ行くと、うまく書けない。そういうのは、材料を提供して書いてもらうことにした。書き手は白柳秀湖であった。秀湖は達筆で、なんでもスラスラと書いてのける。私は一人前の記者でなかった。かんじんな文章を人から書いてもらうことを恥じた。
編集長に反抗してクビ
私は、日本新聞の記者に転じた。新聞記者は、人から文章を書いてもらうことはできない。しぶしぶ自分で書いた。しかも新聞記事には、一種の新聞調がある。そのころの新聞記事は、まだ文語体であった。切らずに、終わりまで続けて書く。そして終わりに「と」という文を一字付け加える。「と」は、客観情勢を伝える意味である。私は新聞調に記事を書くケイコをした。半年くらいの練習で、どうにか書けるようになった。
新聞記者を二、三年やった。その間、日本新聞から毎夕新聞に転じた。毎夕新聞は日本新聞より格下の新聞であったが、月給が多かったのでそれにつられて移籍したのであった。日本新聞の月給は50円、毎夕新聞は70円であった。毎夕新聞の在籍は、六カ月ぐらいに過ぎなかった。新しく入社してきた新編集長に反抗し、論旨退職を食ったのである。その結果、私は生活に窮した。勤め先がないのである。月給50円時代は甲の社をやめると、乙の社から招かれ、三日と浪人したことがなかった。70円になると口がない。
苦しかった創刊当時
その際に、其先輩に雑誌の発行をすすめられた。「君も雑誌を出したらどうだ。名は、ダイヤモンドと付けたまえ。小さくとも光るという意味で・・」私は、深い考えもなく、フラフラと、その勧告にしたがった。そのために、創刊後三年間は、食うや食わずの苦労ををした。三年後に第一次欧州大戦の影響をうけて経済が発展し、私の雑誌も発行部数が増え今日に至った。発行以来四十九年を経過している。その間に私は文章の鍛錬に努めた。
最初は、達意の文章を心がけた。つぎに、ひとの文章をまねた。最初にまねたのは、山路愛山の文章であった。彼は「近代金権史」というのを書いて、雑誌「太平洋」に発表した。書き出しが「地獄の沙汰も金次第という。一語よく古今の世態人情をうがち得て妙なりというべし。徳川家康が天下を取りたるは・・・」というのであった。私は、徳川家康が天下を取りたるは・・・この句に心を引かれた。当時は、まだ口語体が用いられず、ほとんど全部文語体であった。愛山も、金権史を文語体で書いた。だが、内容は、口語体同様のものにした。そこで、徳川家康が天下を取りたるは・・・とやったのである。私は、それ以後しばらく愛山流に書いた。
漱石の博識に感銘
その後、夏目漱石の「猫」をまねた。あれは、ひじょうな名文であるから、文章のまねはできなかった。漱石の態度をまねた。書斎に引きこもっていて、あれだけのことを書く。
その博識は驚くべきものであった。私は、博識を心がけたのである。それから黒岩涙香を学んだ。かれの小説を一度読み出すと、つぎからつぎへ追われ、巻をおおってはじめてやむ。あの読者を引きつける呼吸を学んだのである。
それから、俳人の碧梧桐を学んだ。これは、句を短くすることである。頼山陽の日本外史も学んだ。日本外史の巻頭に「平氏は桓武天皇より出ず」とある。この一句、山陽の勤皇の思想を現わし、千金の値がある。詩の作法に、起承転結というのがある。これも学んだ。
本町二丁目の糸屋の娘
姉は二十一、妹は二十
諸国大名は弓矢で殺す
糸屋の娘は目でころす。
第一段は起、第二段は承、第三段は転、第四段は結である。詩でないけれども、起承転結の法則にはかなっている。
随筆もこの作法にしたがって書くと、しまりがあってよくなる。ただし、本文は、この格にはまってない。病後でこれだけ書いたのだから、ご寛容に預かりたい。
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