高度成長と創立45周年

 昭和30年に高度成長時代がスタートした。輸出ブームに加え、民間の設備投資熱が鉄鋼や新産業の合成繊維、石油化学工業などの新技術投資を中心に燃え上がった。好況を反映し、昭和30年夏以来の株式の上昇相場は、金融機関、生命保険の大量買いを中心に31年夏まで続いた。

 33年に東証ダウ平均は624円と続伸し、出来高も1億株の大台を突破した。こうした株式市場の活況に対し、ダイヤモンド誌が積極的に対応した事はいうまでもない。とくに得意の会社論評、株式分析記事が白熱的な活況を呈した。このころのダイヤモンドの注目記事をみると、各界権威の執筆による「私見」欄はとくに異彩を放ち、また昭和30年の春に戦犯指定を解除された元企画院総裁星野直樹が、昭和31年にダイヤモンド社顧問に就任し、政財官のトップをゲストに招き、「時局対談」でダイヤモンド誌の声価を大いに高めた。

 石山と星野直樹の付き合いは、昭和15年に満州に招待されたのが始まりで、戦後、星野がA級戦 犯で巣鴨刑務所に幽閉されたおり、石山はよく世話をした。石山は「回顧七十年」の著書の中で、星野直樹のことを「親しく接触して感じ入った事は、少しも私心がないことと、非常な勉強家である。 星野先生の入社を得たことは、我社近年の収穫である」と評している。そして、石山賢吉の「提言論稿」は読者に新しい情報を提供しつつも、その真骨頂は社会の不条理性、経済界の非合理性などを鋭く突いた、正義感の発露ともいうべきものだった。 昭和34年のダイヤモンド誌の「国鉄改善論」は、国鉄の民営分割論を中心に、 企業会計の原則、車両の近代化、経営の合理化などの提言と、十河総裁への公開質問状を誌上に発表するなど、するどく迫った記事であった。

 昭和33年は、ダイヤモンド社創立45周年の年である。ダイヤモンド誌も名実ともに週刊誌となった。ダイヤモンドは4社の複合体に発展した。経済雑誌「ダイヤモ ンド」を中心とした本社(182名)、ダイヤモンド印刷(58名)、ダイヤモンド広告(50名)、ダイヤモンド・サービス(44名)、総計334名の所帯にもなっ た。記者は75名で、平均年齢は36歳であるから老いてはいない。人材もそろった。本社並びに子会社3社に勤務する2世は34人にもなった。社員採用は大部分情実採用であった。寺沢、渋沢、星野など新潟白根の親戚の子供である。また新潟県人 会の会長職をしていたので、当時は新潟出身者がかなりの人数をしめていた。この頃のダイヤモンド社は、同族会社のごときのものになった。

同年は記念すべきことがあと三つある。本社ビル「二号館」が落成したことが一つ。一階を雑誌印刷の輪転機工場、地下一階を紙倉庫、3階部は印刷部の文選植字・ 紙型鉛版・写真製版工場、その他階には編集部、出版部、関係会社がはいった。創立 記念祝賀会は東京港・日の出桟橋の興安丸船上で開かれ、政財界の知名人千数百名の参会を得た。もう一つは、石山賢吉の喜寿の祝いと金婚式が品川区大井の石山家で行われた。