天寿を全うして

 昭和38年は、石山賢吉にとって記念すべき出来事がもう一つある。衆議院議員福田赳夫が発起人となって、有志から醵金をして、賢吉の長寿祝いとして寿像を贈った。石山は寿像に対して次のような一文を「ダイヤモンド」誌に書いている。

  「(前文略)さて、本人が寿像に対してみる。七割似ていて、三割は似ていない。似ていないところは、寿像が私より偉く造ってあるからだ。私はどうみても寿像ほど偉くできている男ではない。(略)寿像は永遠だが、本人はやがて消滅する。死んだ当座は、三割似ていない本人が亡くなって、本人まがいの寿像が残ったということだろう。それから十年たったら、本人の姿があらかた消滅して、寿像だけが本人を嘲笑しながら残るであろう。そのときは、石山賢吉の姿がまったくかわるときである。それ以後に私を知る人は、寿像を私と思ってくださるだろう。それは、石山賢吉本人より、一格向上した石山賢吉である。私は、このことを想像して、寿像の作者の高村豊周氏に心から感謝する。」

  晩年の石山は帯状ホウシンという病にかかり、入退院を繰り返していた。したがって、筆をとる事も少なくなったが、病院を出ればまた書き続けた。昭和39年1月には、会社記者を集めて文章作法の講習を数回行った。会社記者で始まり、会社記者で終わる石山の遺言のような出来事であった。晩年は闘病生活が続き、病院と社との比率は8:2位になっていた。しかし人から頼まれれば揮毫もした。原稿も書いた。長年取り組んだ原稿執筆は途絶え途絶えとなり、懸案の「決算報告の見方」の改訂・完結版はついに挫折するにおよんだ。

  7月のある会合で石山は倒れた。すぐに警察病院に再入院。しかし意識がもどらず2週間経過した。「会社へ行く」という言葉が最後だった。7月の23日、石山は天寿を全うして82年の生涯を終えたのである。天才でもなければ、非凡でもない。ただ努力と忍耐の処世術をひとより多く持ち合わせていた。その気質があの時代に適応し、ベンチャー精神を花開かせたのだろう。立派な人生だった。7月、勲三等旭日中授章を受け、没後、従四位に叙せられた。

(2002年5月石山賢吉物語完。 ちなみに本年は石山賢吉翁生誕120年になる)